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認知症 「脳のリハビリ」
認知症介護【48】
2003年4月1日〜「浜松方式でボケは防げる 治せる」より引用
家族でとり組む脳リハビリ
脳の活性化と生活指導で小ボケを治す
大ボケまですすんでしまえば回復が困難なことは前に述べたとおりですから、小ボケ、中ボケのうちに早期に手を打つことです。小ボケの時期には、まだ本人にも病識があって、協力が得られやすい場合が多いものですが、中ボケまですすむと家族の愛情が最大のよりどころになります。配偶者、子どもたちの愛情の総和が大きいほど回復しやすいというのが私達の印象です。脳リハビリの原則は次のようなものです。
●生きがいのある積極的な生活を
家に引きこもりがちなお年寄りを、老人クラブでも公民館でも趣味の講座でもいいから、仲間がおおぜいいるところへ連れ出すこと。週に2、3回できれば毎日でもそこへ通うようになるとしめたものです。なにかひとつでも楽しめる趣味をもつことに成功すれば、意欲が出てきて人生を楽しみはじめます。ただし、趣味をどう選ぶかがもっともむずかしい問題で、もともと若いころからなんの趣味もやってこなかった人にボケが多いことからいろいろな工夫を要します。そのことについては項を改めて記載します。
●老若男女にわたる交友を
わが国では高齢者が異性に関心をもつこと自身、歳のとりがいのない恥ずべきこととする旧来の風潮があります。これはまちがった考えです。この世には男と女しかいないのです。同じ趣味をやるにも、おじいさんたちだけやおばあさんたちだけではおもしろくありません。歳をとると子どもにもどるわけですから、あの幼稚園のころ、「あの女の子はかわいいね」とか、「あの男の子の目はキレイだね」などと話し合った記憶を思い出してください。高齢者であっても異性に興味をもたなくなったら、それはあきらかにボケのはじまりと思ってください。異性へ関心を持つといっても、それは必ずしもセックスに関連したこととは限りません。もともと、いくつかの趣味を続けていれば自然に4、5人の男友だち、女友だちはできるもので、皆でいっしょにお茶でも飲みながら世間話をするなど楽しみなものです。当然ながら、服装に気を使い、お化粧も心がけるようになるでしょう。
●毎日、定期的な身体運動をさせる
散歩などはもっともよいし、ラジオ体操も達成感があって満足できるでしょう。毎日30分ないし1時間、定期的に散歩することは、それだけで意欲をよみがえらせる効果があります。私の患者さんには、万歩計で1日最低5000歩歩くことを義務づけています。それだけでもボケの進行をストップする効果が充分に期待できるようです。手足を動かすことは、そのぶん、脳の運動領域をはたらかせていることになり、脳のトレーニングにもなっているからです。
●毎日、一定の仕事を義務づける
仕事はなんでもよいでしょう。孫の子守り、鉢花の水やり、庭の手入れ、家庭菜園、家の内外の掃除、ごみ処理など、すこしだけ注意力を必要とするものがよいでしょう。ポイントは、この仕事は自分がいなければだめだ、という誇りをもたせることです。みんなのなかでの役割分担をこなしていければ自信も出てきます。逆に頭を使うことのない、決まりきったルーチンワークはかえってボケをすすませるもとになります。
●日記をつけさせる
「朝起きて顔を洗いました。そしてご飯を食べました。ご飯がすむと散歩にいきました」式の、記述するだけの日記なら、小ボケの人にもなんとか書けます。しかし、頭の体操のためには、あるできごとについての自分の感想、思い出などを書くように努力してもらうのがよいでしょう。もちろん、1日の記憶をよびさまして事実を箇条書きするだけでも、記憶力を刺激し、月日を再確認させる効果はあります。
●外出や旅行にはなるべく連れ出す
どこかの風景をテレビで鑑賞するのもいいですが、戸外へ出て実際にほんものの山や川に親しむのはもっとよいでしょう。近くの公園でも、もちろんデパートでも、かまいません。だれかがいっしょに歩きながら、いろいろな話をしてあげたり、花や木の名前を質問してあげるのも役立つでしょう。こんなときにも周囲の人の愛情が大事です。
●できれば子どもや孫たちとの同居を
老夫婦ふたりきりとか、孤老といわれる生活環境では、どうしても話題が乏しく、刺激も少なくなりがちです。1日中、ふたりぼっちだったのに考えてみればお互いひとことも言葉を交わさず、テレビばっかりみていた、ということも少なくないでしょう。大都市での住宅事情ではむずかしいでしょうが、もし可能なら、大家族での同居こそ、ボケ予防の近道です。腰は多少痛くとも、孫のおむつくらいは代えてやりたいという環境が、意欲を目覚めさせるものです。
「浜松方式でボケは防げる 治せる」金子満雄 著 講談社発行
P146〜P150より引用 1998.8.26 第14刷発行
金子クリニックのHP(http://www.mkaneko.jp/)
私はババが脳梗塞で倒れる4年前(1999年)にこの本に出逢っていた。
本を読んで、「ある程度まで進んでしまった認知症は治すことはできないが、初期であれば改善、もしくは進行を遅らせることができるんだなぁ」と思った。そのため専門的なことはわからないが、脳も早期にリハビリを開始するほうがよいと認識していたのである。
当時身内に痴呆ではないかと思う症状が出たため、書店でこの本を購入した。それから著者が勤務されている医療センターに電話をかけた。非常にありがたいことにその頃浜松医療センターでは週3日電話相談を受け付けており、そのアドバイスのおかげで進むべき道を知った経緯がある。
米寿祝も無事に済んだ脳梗塞発作後13日目から私はババが外に出て活動するための段取りを始めた。デイサービスを利用するための介護保険の申請、ババが通っていた「さくら園」への通園復帰、おかしな行動の出ているババの精神状態の確認(神経科受診)などである。
2006年04月03日 | 認知症の脳リハビリ・予防 | トラックバック:0 | コメント:0
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「認知症」それとも「うつ」?
認知症介護【49】
2003年4月4日(脳梗塞後16日目)脳梗塞後に出現した症状は初めは「痴呆」だと思っていた。だが退院後次々と出てくる症状はどう考えても普通ではない。左手とおしゃべりをし、衣服をまともに着ることができず、テレビをみなくなり、「何もできない」と言う。ババを社会活動の荒波に押し出す前に、この症状が「何者」なのか確認しておく必要があると思った。

「☆☆クリニック(神経科)」のドアを開けた。コンクリートの打ちっぱなしの壁、静かに流れるBGM、観葉植物と本を置いてあるボックス、三方に配置された椅子(その配置は微妙にずれていて患者同士の視線があうことはない)。
広いわけではないが落ち着ける空間だ。受付の左奥のドアを開けると診察室になっている。その部屋には弧を描いたカウンターと椅子がおいてあり、ちょっとしたカフェ(?)風だ。そこで私服のドクターが迎えてくれた。
わけもわからず連れて来られ、やや不機嫌のババと私は並んで座った。脳梗塞発作時から現在までの事を説明する。現在のおかしな行動・症状、これから「さくら園」への通園、「デイサービスの利用」などを考えていること、多くの人の中にババを1人で入れる不安等心の中にある心配を全てはきだした。
全て聞いてくれた上で先生は言われた。「
お母さんがおかしな格好で道を歩いていたり、左手と話したりしていたらどなたかに迷惑がかかりますか?」「・・・・・・」 脳梗塞後まだ日も浅く、命にかかわる様な重篤な状態ではなくて本当によかったですねとそんな風なことを言われて私はハッとした。何だか自分が並べた言葉の全てがあまりにもちっぽけなことのように思われた。病名もつかず、もちろん薬も出ず私達はクリニックを出た。
「精神科」をさがすにあたり、知人によい所がないか聞いたことがあった。そして保健所に行き尋ねた。「充分に話を聞いてくれ、評判のよい精神科はないですか?」もちろん保健所は特定の医療機関を推奨することはしなかったが、いろいろな方向からの質問と回答で感触を得た。偶然にも「ここだ!」と思った所が知人の勧めてくれたクリニックだった。そしてその感触は確かなものとなる。私達家族にとっては素晴らしい精神科医との出会いとなった。
2006年04月05日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:2
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解禁!「殿方」の話題
認知症介護【50】
ケアマネージャさんが交替の挨拶にこられ、帰った後、寝ていたババが台所に来た。「
お茶にしよーか?」「そうだネ」お茶とお茶菓子を準備した。

「
あ、これは源氏だね〜〜。食べちゃだめだねえ〜」とババ。えっ?そうか、出したのは「源氏パイ」だ。でもなぜ食べちゃだめ?うぅん・・あ、ババは平家の子孫だって言ってた。「平家だから?」「
そうだヨ!アハハ」笑いながら美味しそうに食べ始めた。私よりババの方が頭の回転が早い。
ババがクスクスと笑いながら「
実はここのところ、同じ夢の続きをみるんだよ。で、ねぇ、田中さんっていう人と結婚することになってねぇー。」「えェー〜〜〜!」「
お父さんがね、うちは今何か行事があったり、手が必要なときに人手が足りないから、あの人なら申し分ないって認めたんだよ。」「お義父さんはどうしたの?どこに行ったの?」「
あれは・・関係ないよ。きっと私はまだ独身なんだろうヨ」「ふ〜ん・・で、その人どんな人?かっこいい?」ババが横を向く。フフフと笑い続ける。「どこの人?何をしている人?」「
そんなことまで出てこなかったよ」
以前ババがまだ若かった頃の話をしてくれたことがある。ババの兄弟は男が3人、女2人である。ババにはお姉さんがいる。そのお姉さんとババはまるで対照的だったそうだ。お姉さんは頭がよく、学校でも優等生で習字なども綺麗でいつも教室の壁に貼られ、家庭的な手作業も得意だった。お姉さんは農業は全くできず、嫁いだ先での田植えで引き抜いた苗にたっぷりついている土を振り落とすことも知らず、周りの人に笑われたほどだったのよとババは話す。それに比べババは頭は悪く、お姉さんの妹だからできるだろうとの見方をする人を落胆させ、花嫁修業的手仕事(料理、裁縫等)は全くできず、ひたすら男のごとく農作業をしていたそうだ。
そして母親にも「お前は何もできないからね」と言われていたという。今のババの言い分は「
自分の子どもにそんなことを言うもんじゃないねぇ、本当にそうだと思って自信をなくしてしまうヨ!」ババの場合、母親にそう言われ続けてきたせいもあって、自分は料理と家庭的なことは何もできないから結婚なんて考えることすらできない人間なのだと思い込んでいたという。そのため、当時ほのかな想いを抱き、気になっていた人がいたが、とてもお付き合いなど考えられなかったという。その人は学生の頃、道を歩く時も本を読んでいるようなまじめな人で・・・とババは言っていた。今改めてその人のことを聞いても「
誰だったかねぇ?」というので真偽のほどはわからないが、ババの青春時代は「恋愛」とは無縁だったようだ。
男性のことをオープンに言うこともなかった。私が嫁いできてからオープンに同じ年頃のお爺様とくっつけようと冷やかしたりするのでババも慣れてしまい、食堂で同世代のお友だちを同じように冷やかしたら本気で怒ってしまったそうだ。
ところで、我が家の近くに畑があって、たまにそこで働くお爺さんを見かける。ババに時々言う。「あの畑のお爺さんとババが一緒になったら、いずれあの広〜い土地は私達の物になるよ!ババ、頑張って!」「
私はいいけど、あちらはどうだろうねぇ?あんたが行って聞いてみて!」で、その畑の横を通る度にお爺さんの話題になる。ババはそう思っていないが、どうみてもお爺さんの方が「かなり」若いので気の毒だが・・・。
2006年04月07日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:4
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母のために
認知症介護【51】
ババは6人兄弟4番目の次女として生まれた。一番下の四男が生後まもなく1歳で亡くなっている。(ババは養子縁組等の関連で戸籍上は長女になっている。)
ババのお母さんはババが25歳(亨年59歳)、お父さんはババが33歳(亨年68歳)の時に亡くなっている。そしてババが結婚したのはお父さんが亡くなって1年後、ババが34歳の時だからその時両親はいなかったことになる。
幼い頃、ババは「お父さんっ子」と言われていたらしい。ババは母親の体調が思わしくなく他の女性の母乳をもらって飲んだり、ミルクなどで育ったということだ。父親がよくそのミルクをババに飲ませてくれたらしく、ババは父親を見ると寄って行ったそうだ。それが「お父さんっ子」の所以らしい。
でもなぜかババはそれをあまり快く思わない。農業学校の先生をしていたという父親は家業の農業はあまり手伝わず、よく酒を飲み出歩いていたという。ババの頭の中のイメージは「お母さんに苦労をかけた人」なのだ。いや、母親に対する想いの方が父親のそれよりもずっと勝っていたということかも知れない。

ババは自分の部屋に飾ってある母親の写真を見つめ、時々涙する。
「
今ならきれいな着物を買ってあげることも、病気だったお母さんに栄養のある美味しいものを食べさせてあげることもできるのにねぇ・・・。苦労しっぱなしで亡くなってしまって・・・。何にもしてあげられなくて・・・」「
でもたった一つだけ私が言いだしっぺで、お母さんのためにしてあげたことがあるヨ。昔うちは水汲みをするのが本当に大変で、坂を上り下りしなければならない離れた所(泉)から重たい水を汲んで家まで運んでいたの。お母さんに楽をさせてあげたくて、兄弟でお金を出し合って井戸を掘ろうって言ったのよ」 そしてババは働いて貯めたお金を送り、井戸は掘られた。
ババは自分が「25歳」とまだ若い時にこの世から母親を失う。だが、ババにとって生前中の母親は遠い存在だった・・・。
2006年04月09日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:0
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母への想い
認知症介護【52】
脳梗塞の発作を境にして、ババの心の自制は解かれた。弱かった、母親に甘えたかったババの心が次々とさらけ出される。ババはもう心にバリアを張る必要がなくなったのだ。

両親と生活していた頃、7つ違いのお姉さんはどちらかというと身体が弱く、もっぱらババのほうが農作業をしていたらしい。ババは頭も悪く(本人の弁)母親にもそう言われていたという。戦前、戦時中と家を守って来たと言われるババはたくましい存在だったのかも知れない。義父と結婚してからもひたすら働いてきた。「
周りの人はケチな人だと思っていたはずだよ。」貧乏ゆえ人並みのお付き合いができなかったという。そして義父の療養のため現在の地に移り住み、慣れない仕事をして女手で家計を支えてきた。強く生きてきたのだ。もしかするとババのお母さんにとってババはほうっておいても大丈夫な娘だったのかも知れない。
またお母さんが病気になった時、お母さんの側に行ったら「おまえは臭いから近づかないで!」と言われたという。何か理由があったのかも知れないし、言葉の取り違えがあったのかも知れないが、もはや確かめることはできない。「
幸い面倒を見ていたお兄さんは病気のこととかも結構知っていてねぇ。お母さんの気に入りだったよ。お母さんは死ぬ前に「もう一度子供たちみんなに会いたい」って言ってた。それだけが心残りで・・頭に残っているよ」結局遠くにいた子ども達には会えないまま、お母さんは亡くなった。
幼い頃からきっとババは母親を求めてきたのだ。抱きしめてほしかったのだ。けれど働き者で、しっかりもので、感情表現の方法を知らない、甘える方法を知らない、そして母親に愛されているという確信のなかったババは、母親が亡くなるまでとうとうそれを出さずにきた。
私がヨシキと結婚してから、私の実母と妹が遊びに来たことがある。遠く離れていてめったに会えない私達は3人仲良く出掛けた。楽しんで遅く帰ってきた私達をババの怒りの形相が迎えた。「何で?水入らずでゆっくりできて良かったネとでも言うならともかく・・!別にババに声をかけなかったからってそこまで怒らなくてもいいんじゃないの?」その時はそう思った。だが今ならあの時のババの気持ちがわかるような気がする。
2006年04月10日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:0
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認知症ババの世界
認知症介護【53】
2006年4月12日午前5時45分、ババのベッドの隣で寝ていた私は「
柔らかく、おかゆでも炊こうか?」というババの声で目を覚ました。
寝ていたババがモソモソと起きる。例のごとく、掛け布団を私の上に落としながら・・・。「?・・うん・・」私は答えた。自分で料理なんてほとんどしないのに?どうしたんだろう。寝ぼけているのか、起きているのかわからないババが座って続ける。

「
何かおかずを・・玉子焼きでもしようか」「うん・・でも・・おかゆが食べたいの?」いつも朝はパン食なのに・・。「
何で、アマのためだよ。何も食べないで寝ていると身体によくないから。」「う・・ん」ようやくわかった。ババは自分の隣で寝ているのはババのお母さんだと思っているのだ。今話をしているアマはアホ嫁である私ではない。「
何か手頃な鍋があったかねぇ〜」と言いながらババが台所へ向かう。
起きてババの後ろからついて行った。本当にガスレンジの前に立って鍋をさがし始めた。キョロキョロしていたババは私に気付き、「
鍋はどこかねぇ?」と聞いた。「出そうか?」と言って鍋を取り出した私に「
あんな風に何も食べないでいたら大変だよ。何か食べたい物がないかちょっと聞いてくるワ」あれ〜?今鍋はどこにあるかと聞いた相手はアホ嫁である「私」なんだ。
自分の部屋に向かった直後「
あれっ?あれぇ〜!?」という声がする。行ってみた。ババのお母さんが寝ていたはずの寝床には誰もいない。もぬけの空となっている寝床を見て、びっくりしたババが目を丸くしていた。「
どうしたんだろう?上に上がったんかなぁ?」
2006年04月12日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:0
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今と過去の生活との狭間
認知症介護【54】
2006年4月13日「
チー!チー!」朝食後寝ていたババが私の名を呼んでいる。
「
精米に行こうか?どこにあったかね〜、▲▲▲(田舎の村の地名)に行けば精米してくれる所があったかね〜?」
「ん?いいよ」 ババはまたここを田舎だと思っているのかナ・・・。
「
チーも一緒に行くの?」と何だか嬉しそうにババが言った。続ける。
「
そうか!じゃ、2人で行こうか!何に載せていく?あの押し車(シルバーカーのこと)でいいかねぇ?でも、うちは米俵あった?」
「うん、あるよ。」
「
何であるんだろう??どこにあるの?昔はね、米俵を牛に載せて持って行ったもんだよ。俵が破けるのが心配でねぇ〜。」
「へえ〜〜!牛に載せて運んでいたんだ!お米を作っていたの?」
「
そうだよ、でもこの辺に精米できる所なんてあった?」
「うん、駅の北側にお金を入れたら精米できる機械がおいてあるよ。あ、そうか!私はこの前、そこで精米してきたんだ。忘れてた!お母さん、俵はもうないワ・・」
「
そうだろう?どこをみても俵なんてなさそうだし・・変だと思ったんだよ!」

ババはやっぱり働き者だったらしい。
早朝起きると「
朝ごはんまでに牛のため草を刈ってこよう!鎌はあった?」とか「
畑に行こう」とか言う。おかげで、過去のババの生活を垣間見ることができるのだが、そこにちゃんと現在の私の存在があるから不思議である。
私にはババのような働き者の生活はできない。でもババの現役時代にババと一緒に牛を引いて精米に行ったり、草を刈ったり、畑仕事をしたり・・・そんな時間を持てたらよかったナ・・ババもそんな相手がほしかったんだろうナ・・その姿を想像しながら思った。(もちろん1〜2回か、ほんの少しの期間で十分だけど・・・私は怠け者だから・・・。)
2006年04月14日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:2
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「さくら園」へ行きたい理由
認知症介護【55】
2003年4月5日(脳梗塞後17日目)前日神経科の受診で勇気をもらい、前向きで動じない私ができあがっていた。さあ、入院2日目からババが行きたがっていた「さくら園」へ行こう!ババはまるで遠足を楽しみにする子どものようだった。早朝からソワソワし、7時30分位にはすでに待機状態だった。
「さくら園」(老人福祉センターの分館)でのババのメニューはまず午前10時から「楽らく日常訓練教室」(体操・ゲーム)に参加、その後持参のお弁当を食べ、それからお風呂というコースだ。
それにしても、ババはなぜこんなに「さくら園」に行きたがるのだろう?脳梗塞で倒れ、ぼんやりしていたはずの入院2日目に「さくら園」に行くと口にした。嫁と2人で家にいることがよっぽど嫌なのかなぁ?考えられなくもないけど・・・。でもあんまり家を出たがると私が追い出しているみたいで人聞きも悪いし、何か他に理由があるのじゃないかしら?(^_^;)
確かに広いお風呂に入るのは気持ちがいいだろうし、水道代の節約にもなる。「さくら園」に行けば館内は空調で1年中一定の温度が保たれ、家にいることを考えれば電気代の節約にもなる。うん、経済的な理由だったらまあ、無理矢理だが仮の(?)納得はできる。
この日から私はババの送り迎えのため「さくら園」に出入りするようになる。そしてメニューを消化しているババの表情を見たとき、私はそこに答えを見た。家にいる時とは違うババの楽しそうな活き活きした表情・・・理屈はいらなかった。男性、女性一緒に行う楽しい体操、ゲーム、仲間とワイワイおしゃべりをしながら食べるお弁当・・・迎えの為、館内2階に上がる私の耳にババのひときわ大きな笑い声が聞こえてくる。

2006年04月15日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:3
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「さくら園」 通園復帰の日
認知症介護【56】
2003年4月5日(脳梗塞後17日目)何とか身支度をし、お弁当を持ってババと私は「さくら園」へ出発した。
ババはシルバーカーを押し、私はリハビリだと思い、それを見守りながら並んで歩いた。出発早々ババはどうもシルバーカーをうまく握れないことに気付く。右手は問題ないが左手は持ち手ではないところを握りしめている。右手と左手では高さが段違いになっていた。手を添えて通常の状態に戻しながら進んだ。左手はかなりの力が入っているみたいだ。
<ババは軽かったからこれでよかったのかも知れないが、後日私は片麻痺がある場合、シルバーカーを使用すべきではないと知る。麻痺側に傾いてしまうので危険なのだ。>カーブの所にさしかかった。ババがそのまま進もうとするので、「お母さん、左に曲がろうか?」と声をかけた。・・・ところが反応しない。「お母さん、左よ、左!」ババは立ち止まって困惑している。え〜〜!どうしたの?・・・何とババは右と左がわからなくなっていたのだ!やむなくその度、右と左を確認し、誘導しながら歩いた。
そして並木の続く歩道に入った。な・な・なんと!!今度はババが左脇の木に突進していく。間に合わなかった。シルバーカーと木の正面衝突。ババは特に左側が見えないようだ。視野障害を起こしていたのだ。(約2ヶ月半後の6月18日に精密検査を行った結果、左右ともかなり広範囲の視野狭窄があることがわかる。おまけに視力検査も「数字にならない視力」との検査結果だった。)

やっとの思いで「さくら園」に到着した。ババと2階まで一緒に上がり体操室へ送った。その後私は園長さんと看護士さんに面談をお願いした。脳梗塞発作時からのこと、今の健康状態、認知症状、ババが「さくら園」に来たがっていた事、早期に回復させたいこと、当分私が送り迎えをする事などをお話した。ババの望みをかなえたい、問題はあるかも知れないが「さくら園」に通わせて下さいとお願いをした。急性期なので断られる不安もあった。しかしお2人の返事は私を心配させないようにと配慮されたとても暖かい言葉だった。
この日から「さくら園」の職員の方や同じく通園されている皆さんに見守られながらババの通園が始まったのである。
2006年04月16日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:0
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認知症ババ&アホ嫁の生活費
認知症介護【57】
2006年4月11日外は雨が降っている。お茶を飲みながらババが言った。
「
ありがたいことだネ!雨が降っていても関係ないし、家の中で寝ようが起きようが自由に過ごせて、食べる物の心配をする必要もないし・・・。お父さん(義父)がシベリア帰りで身体が弱くて働けなかったから・・それはしょうがないけど、でも自分で働いてきたおかげでこうして年金がもらえる。本当にありがたいことだよ」「そうね。おかげで働かなくても生活できるし、ネ!」「
あんたの分も、ネ!」「はいッ!そうだね〜〜。ありがとうね〜!」(^_^;)

(ヨシキの収入が基であることはもちろんだが)ババはババの年金で自分と嫁の生活をまかなっているのだと時々誇らしげに言う。ヘルパーさんにもそう言って鼻高々らしい。(実際のところ、ババの年代のことだから年金額はそれほど多くはない)
私も少しは稼いでいるよと言っても「
そうは言うけど、一度もその稼いだというお金を持ってきて見せたことがないじゃないの。」「え〜〜!この前3人で山分けしたじゃないの!」紙幣を3人で分けることができるほどの・・少額・・。「
知らないよ。私はもらった覚えはないよ!」「もう・・よく言うワ!」ヨシキの給料とババの年金に比べたら・・・おやつを買えるかな?ぐらいの金額。
今ババの年金は私が預かっていて、時々ババの監査がある。(これがまた恐い。「
で、今いくらあるの?」と何度も何度も聞かれる。)ババに言わせると、使い方の荒い嫁に預けておくと心配らしい。見抜かれているような気もするが、嫁は網の目をくぐって時々使い込みをする。
思えばこういう風に素直にババの年金に手をつけられなかった時期がある。結婚当初まだババは働いていて、息子夫婦の生活を援助するために毎月年金の中から一定の額を私にくれた。ババはずっと生活を支えてきたしっかり者で強い人だったし、私は私で長女だったせいか、甘えたり頼ったりすることが苦手だった。どちらかというと頼られてきた方だ。私にとっては歳をとっているお姑さんからお金を援助してもらうという事はとても苦痛だった。素直な気持ちでそのお金を受け取ることができず、苦しさのあまり、その時働いていた会社の社長さんに悩みを打ち明けたほどだ。
今は「
私の年金で2人の生活費はあるんだから、働く必要なんてないじゃないの!」と言い、「
嫁よ!働くなー!!」とストを起こすババを素直に見つめることができる。
2006年04月17日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:2
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