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「聖書」に包まれて
認知症介護【42】
ババはクリスチャンだ。ババが言うには自分は短気な性格だが、教会に行きお祈りをすることで、感情を沈め落ち着くことができたという。いろいろ苦しいことがあっても今日までやってこれたのは教会のおかげだという。ババにとって心の支えは教会だったのだ。
それを私がつくづく思い知ったのは脳梗塞発作後、「通常の状態でない状態」を感じ取っているババが聖書を胸に抱いて寝ている姿を見たときだ。きっと不安で不安でしようがない時なのだろう。起きている時には別に読むわけでもないのに、聖書をさわっていたり、ひたすらなぞったりしている。いつの間にか一冊の聖書は分解され、ベッドのあちらこちらにバラバラになった聖書の切れ端が散乱していた。もちろんババはそのことは少しもわかっていない。あとでユリさんが補修をしてくれたが、とうとうその聖書は元の形を失い、今は2冊目の聖書が枕元にある。急性期のババの心を救ったものは「聖書」と「さくら園」への通園だったのではないかと思う。
我が家の親族は「創価学会」「仏教」「キリスト教」と宗教はバラバラだ。だが、お互いの宗教を尊重し、干渉はいっさいしないし、ババと私達も同じである。
ババの身内には「キリスト教」が多い。ババの元に「米寿祝い」の前に牧師でもある甥が大好きな花を送ってきてくれた。「少しでも刺激になるように」と故郷を感じることのできるたくさんの切花に暖かいメッセージが添えられていた。
ハレルヤ
ユナチ叔母さん 満八十八歳。
米寿の年祝、誠におめでとう御座います。
聖書の御言葉に「人は天より与えられずば、何をも受けること能はず」とありますが、まさに健康で長寿こそ神様からの最高の祝福の賜物ですね。
何と幸いなことか、いかに恵まれているか、うらやましいかぎりです。
「戦前・戦後の大変な混乱期に家を守って居たから、生き延びれた。今の私達が在るのは、叔母さんのお陰」と母が口ぐせの様に言います。
何も知らずに自分達で大きく生きて来たと思う者の為に、永い永い愛の労苦本当に有難う。感謝申し上げます。男兄弟の分まで、さらなるご長寿を願って居ります。
最後に、この宴席を開いて下さったヨシキ・チーちゃん・親戚の皆さんありがとう。
「見よ、兄弟が共に座っている、なんという恵み、なんという喜び」(田舎在住の甥より)
2006年03月21日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:0
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平和への想い
認知症介護【43】
ブッシュ大統領が自身の任期中、米兵の撤退はないという見通しを述べた。小泉総理は日本独自の判断で自衛隊の撤退を判断するという。
WBCに出場した選手団が優勝を手土産に帰ってきた。日本中が湧き、私ももちろん熱狂した。ただWBCの決勝の相手がキューバになった頃から私の頭には「戦争」という文字が浮かんでいた。自由にスポーツを楽しめる国に相反して、政治的理由で外出もままならぬキューバの選手団。そしてイラク戦争を始めたブッシュ大統領の発言。日本は本当に日本独自の判断で撤退を決めることができるのだろうか?
結婚後一度だけババの甥夫婦と私達家族で舞鶴を訪れた。ババの夫である義父がシベリアから帰ってきた地である。戦前、戦時中ババは食べていくために必死で郷里の家を守ってきた。ババは戦時中空襲から逃げる途中、あわや被弾しそうになったこともあるという。戦争体験者なのだ。そして戦後もまた苦労を背負っていくことになる。義父は足が不自由だったのでその治療の為、やむを得ず家族は現在の地に移り住むことになる。入退院を繰り返す義父に代わり、54歳でこの地に来たババは慣れない仕事をしながら家族を支えてきた。慣れない環境、経済的な面、その苦労は並大抵のものではなかった。それを見ている義父もつらかっただろうと思う。
亡き義父が戦地に行って体験したこと、それを具体的に聞いたことはない。義父は無口で我慢強い方だったという。夫は義父が口づさんでいた歌を教えてくれた。「海ゆかば」、悲しい調べである。

海ゆかば
水漬くかばね
山行かば
草むすかばね
大君の
辺にこそ死なめ
かえりみはせず
戦争を体験していない私に義父の気持ちを推し測ることは決してできない。ただまちがいなく戦争は深い悲しみをもたらす。イラクに平和がきてほしいと願う。そして日本で自衛隊の帰りを待つ家族のことを思う時いつも心が痛む。
2006年03月23日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:2
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「ヘルプ」と「感謝」
認知症介護【44】

2003年3月30日の「米寿祝」は無事終了した。脳梗塞で倒れてからわずか11日目。今思い返しても本当によく開催できたものだと思う。内輪だけということで出席者数は子供も合わせて35名。
先日その時の集合写真をババに見せた。感動!した。細かいことは忘れていたが、この宴席をババは覚えていた。
そして花に囲まれた自分の写真を見て「
なんでこんなにボーとした顔をしているのかねぇ〜?」と不思議そうに言った。青ざめた無表情のババのスナップ写真は、あの時のババの状態そのものを映し出していた。
ババは過去を忘れることも多く、失望することも度々。だが確かにババの頭を刺激していたのだ。ババの記憶のページに残っていたことで、「米寿祝い」を決行した私達の想いが報われたような気がした。
思えば参加した人達の「想い」によって成り立った「席」だった。
なぜかこの時参加してくれた方の中には事情を抱えている人が多かった。家族の重い病、自身の退院直後等等。参加そのものが通常は難しかったはずなのである。また「ババ」の祝いだからと、このような場所が苦手な方が喜んで「出席したい」と言ってきてくれた。
そして祝いの前日までの準備・・・あまり日もなく、ババのフォローをしながらの諸準備は意外と手間暇のかかるものだった。今思い返しても私達夫婦だけではとてもなし得なかった。できたとしても、どれかを省くかイライラでヒステリーを起こしていたか・・・だろう。それは当然ババにも悪影響を与えてしまっていたと思う。夫は昼間仕事だったし、細かい準備の多くを私が受け持たなければならなかった。窮地を救ってくれたのは、退院直後よりずっと関わってくれたユリさん・早めにきてくれた妹母娘である。
平常だと自分達だけで生きていけるという感がある。ヘルプは必要ない。でもヘルプは必要なのだ。やっぱり人間一人じゃ生きていけない。自分達家族だけでも生きていけない。脳梗塞後11日目に心に残る素晴らしい「米寿祝い」を決行できたのは参加してくれた人、準備を手伝ってくれた人、みんなの「想い」のおかげだったことを改めて思う。
2006年03月24日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:2
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「米寿祝い」ババからの贈り物
認知症介護【45】
2003年3月30日夫の親戚には歌の上手な人が多い。スター誕生(予選?)に出演した者がいるかと思えばカラオケを教えている人がいたり、セミプロ並みの顔ぶれが揃う。(ちなみに私の一族は、オンチ一族である)
そのうちの一人である従兄が「おふくろの子守歌」を歌い始めた。ババの為に歌ってくれているその歌は、しかし優しすぎた。包み込むような優しい調べがゆるやかに流れていく。ここで張り詰めていた心の糸が抵抗なくゆるんでしまった。涙をとめることができない。たった10日なのに目まぐるしく過ぎた。次から次へとやってくる「今、しなければならない事」の対応に追われ、気がつけばこの場で「米寿祝い」をしている。流れている時間がフッとここで止まった。歌声は「よくここまでやってきたね」という言葉にも聞こえた。
〜〜〜
心配かけたあの 叱ってくれた涙
言葉数も少なに 手を引きながら歩く
長生きしておくれよと 心で繰り返す
あぁ ユナチ母さん 本当に ありがとう〜〜〜
午後12時15分より始まった「米寿祝い」。主役のババは一番前でテーブルにしがみついていた。右手でテーブルの角をしっかり握りしめ、途中で羽織を脱ごうとしたり等少々の珍プレイはあったものの式次は順調に進行した。皆が次々ババに言葉をかけてくれ、子供達から花束をもらい、ババは祝福されていた。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、いよいよお開きの時間がせまってきた。その時思わぬハプニングが起こる。私達の心身の疲れを帳消しにするババからのプレゼントである。私達家族は前に並んだ。夫がお礼の挨拶のため、口を開いた。
「本日は皆様お忙しいところをわざわざお越し頂き、ありがとうございました・・」
ここで突然(ババ)「
80年の人生、しあわせでしたーーー!!!」
大きな声で手は万歳をしながらババが夫の話しに割り込んだ。誰もそれが予定外だとは気づかずババといっしょに万歳をした。夫は続ける。
「このおめでたい日を迎えられましたのも・・・・(省略)・・・・・」
2006年03月25日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:0
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心臓弁膜症
認知症介護【46】
2003年3月31日今日は「心臓超音波」の検査日だ。私は2か所でパートの仕事をしていた。しかし、ババの事、またこの時期職場の環境の変化も重なり、勤務続行が不可能であることを知る。1か所は3月いっぱい、もう1か所は4月7日の仕事を最後に辞めることになる。
さて、検査後の診察でババは「心臓弁膜症」「心房細動」があると言われた。心臓が悪かったんだ。どうして今まで気づかなかったんだろう?一体いつ頃から?私が嫁いできた時にはすでに「ぜいぜい」はあった。病院に行った時に「これは喘息ですか?」と聞いたこともある。一度だけそうだと言われたがドクターによっては否定された。風邪をひいた時に著明になることと、ババの「うちは喘息系統だから」という言葉でババは軽い喘息があるのかなあ?ぐらいに思っていた。
ババが「しんどい」時に病院に行っても「特に異常なし」という診断が多かった。心電図の検査でも特に心臓の病気を指摘されたことはない。そのため「ババはほんの少し体調が悪いだけでも大騒ぎをして、実は私達に心配してほしいんだ・・甘えているんだ・・」と思っていたのである。
「心臓弁膜症」と言われて改めて過去の検査データを引っぱり出してみた。
私達の結婚前・・・健康診断 尿一般検査で「潜血+」 要精査 精査結果→異常なし (この時「癌の疑い」だったらしく、ババは相当の覚悟と身辺整理を始めていたという)
1992.7・・・尿一般検査で「潜血3+」 血液検査「CPK↑」この時の潜血反応も血液ではなかった。「
ミオグロビン」だったと記憶しているがデータが見つからず断定できない。
1994.6・・・「心臓超音波検査」特に指摘なし
1998.5・・・健康診断 尿一般検査で「潜血2+」 胸部X-Pで「心拡大・大動脈硬化症」 心電図で「右脚ブロック」の指摘あり 要精査 このデータは今回初めて見たため、精査をしていない。
2001.6・・・胸痛の訴えあり、
落ち着いてから受診、異常値なし CPKも正常範囲内上限値
この流れを考えると私はもっと真剣にババの体調と向き合うべきだった。ババが元気でしっかりしていた頃「嫁」と「姑」はまだ今のような関係を築けていなかったのである。
2006年03月26日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:0
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減り行く「思い出」
認知症介護【47】
ババと苦しい時代を共に生きてきたババの兄嫁が2006.3.27他界した。田舎に帰りたい、帰りたいと言い続けているババ。ババの年代ともなると同じ時代を共に生きてきた人は多くが亡くなり、世代は代わっている。そんな中でいつも帰郷を笑顔で迎えてくれた一つ年上の兄嫁の存在は大きかった。
悲報を聞いたババが開口一番に言った言葉「
もう少し待ってくれたら・・姉さん。もういっときしたら・・会えたのに・・しようがないよね・・みんないずれは行かなければいけないところだからね・・」ババはそれ以上は語らなかった。それがよけいに痛々しい。
「告別式はヨシキに行ってもらおうね。

ババは体調のこともあるから・・・」「
そうだね。私が行くとかえってみんなに迷惑をかけるしね。」とあっさりとうなずく。でもしばらくすると「
私達の喪服の準備はできてるの?」このやり取りを何回か繰り返した。
ババの気持ちを考えるとすぐに連れて帰れないことが苦しい。ババを連れて帰るとき、私達には相当の覚悟が必要だ。主治医も難しい顔をする。亡き母が眠る地へ帰りたいというババ。「
私だって寂しいんだヨー!お母さんのことを考えると・・・」最近すぐには帰れないと伝えた私にババがつぶやいた。ババの心の中にあるババの母親への想い。ババと母親の関係。近頃それを話してくれたのだがその矢先、いろいろな思い出を共有できる人が亡くなってしまった。
故郷からババの思い出と思い出の場所がどんどん減っていく。ババの帰郷が実現したとき、そこにどの位の思い出の形が残っているのだろう・・・。
2006年03月28日 | 認知症介護・日常_1 | トラックバック:0 | コメント:0
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